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平成事件簿(3) 日本生命・三井生命事件 

Ⅰ 案件概要
 三井生命は、リーマンショック等の影響により、今後の事業継続に困難が伴うことを自覚し、他社との合従連衡を模索していた。 当初、住友生命との統合を画策するも停滞してところ、日本生命から経営統合への打診を受けた。
 平成27年9月11日、両社は経営統合に関する基本合意書を締結した。当初提示されたTOB価格は490円であったが、約7ヶ月に及ぶ 交渉の結果560円にまでアップさせた。その後も価格を引き上げる努力をしたが、560円は財務アドバイザーの算定結果のレンジ内 であり、主要株主がこの価格で納得したため、三井生命はTOBを受諾した(TOBへの応募を推奨する旨の意見表明報告書を提出)。
 同年11月9日、三井生命に対するTOBが開始された。買付期間は11月9日~12月21日でTOB価格は560円であった。TOBは100%取得を 目指したもの(100%子会社化後に三井系、住友系の数社に株式を譲渡するストラクチャ)であり、TOB前置き型の2段階買収 (スクイーズアウト)と類別されるスキームが採用された案件である。TOBの結果、日本生命は議決権ベースで96.34%の株式を取得 するに至った。
 日生は、翌年1月27日(三井生命の取締役会における承認を経て)TOBに応募しなかった、残り3.66%の株式を保有する株主に対し て、TOB価格と同額での売り渡しを請求した(会社法179条1項)。ところが、三井生命株を7.15%保有していたシンガポールの投資 会社 TIHTインベストメント・ホールディングスは価格が安過ぎると売り渡しに反対し、売買価格の決定を求める申し立てをした。
 TIHTは、『 (1)三井生命自身が エンベディッドバリュー(以下、EmbVと表記する)(注1) を「企業価値を評価する有力な指標 」 として公表 している。(2) 2015年3月末時点における三井生命のEmbVは約7,500億円である。一方、売り渡し価格は企業価値が 約 3,345 億円であることを前提に算出されている。』ことを安過ぎると判断した理由としてあげた。その上で、シナジーを含めて 1,746円が公正な価格であると主張した。
 なお三井生命は非上場会社であるが、有価証券報告書提出会社であるため、TOBルールに従わなければならない。

Ⅱ 判決の枠組み(注2)
 東京地裁は、TOB価格=売渡価格560円が公正な価格と決定した(平成30年1月29日)。東京高裁も560円が公正な価格と決定した (平成31年2月27日)。
 申立人はEmbVベースでの価値評価を主張したが、この点に付き東京地裁は、『日本ではEmbVと株式価値との関連性についての 研究はほとんど行われていない。また、EmbVは主として財務情報の補完機能に限定されるとの指摘がある。』と述べ、定量的な議論 には踏み込まなかった。代わりに、当該TOBが「一般に公正と認められる手続き」に従って行われたことを判示することで、TOB価格 =売渡価格560円が公正な価格であると決定した。
 詳細に述べると、当該TOBは①独立当事者の間で交渉が行われた取引であり、②MBO類似の構造的利益相反関係が認められないため、
 ◆ 独立した第三者委員会は設置されなかった
 ◆ 三井生命は財務アドバイザーからフェアネスオピニオンを取得していない
 ◆ MOM(マジョリティ・オブ・マイノリティ)(注3)の設定条件がされていない
 ◆ 特別委員会ではなく、三井生命の取締役会が財務アドバイザーを選任した
 ◆ 三井生命が財務アドバイザーの成功報酬(の存在、金額等)について開示しなかった
 ◆ オークションプロセスが実施されなかった
 ◆ 三井生命が公表したEVを大幅に下回る金額が提示された
けれども、
 ③TOBの強圧性が排除されている
 ④法務アドバイザー(注4)の助言を受けている
 ⑤TOB価格は財務アドバイザー(注5)による価値算定のレンジ内である
 ⑥株主がTOBに応じるか否かの判断に必要となる情報が適時かつ適切に開示された
から、「一般に公正と認められる手続きが履践されなかったとまでは言えない」ために、(やや弱い感じがするものの)当該TOBが 「一般に公正と認められる手続き」に従って行われた、とした。さらに前述の通り、560円という価格は約7ヶ月の交渉の末、490 円から金額アップを勝ち取った結果であり、この努力も裁判所は評価した。
 なお三井生命の財務アドバイザーはDDM法及び類似会社比較法で価値算定を行っている。

Ⅲ EmbVを前面に出すと判決は変わるだろうか?
 結論から述べると判決は変わらない。細かく見て行こう。
(1)  シンガポールの投資会社はEmbVをベースにTOB価格を算定すべしと主張しているが、この主張は真っ当なのか。
 これも結論から言うと、「EmbVベースで生命保険会社の価値を評価する」というアプローチは真っ当である。資料1の引用文献(注6) によると、EmbVは元々生命保険会社の M&A に際して発達した企業価値評価手法が基になっているといわれる。
 通常、企業価値評価ではDCF法(マッキンゼー用語で言うところのエンタープライズDCF法)が用いられる。金融機関の場合、有利子 負債の扱いが事業会社と異なるのでエクイティDCF法もしくはDDM法が採用される。
1990年代後半、生命保険会社の株式会社化(de-mutualization)が話題になった時期があった。その当時日本で株式会社の生命保険は なかったため、評価方法はDDM法を選択するしかなった。実際の実務では銀行を含めた金融機関の評価手法は、今でもDDM法はポピュラ ーである。
 ただし、欧州系生保あるいは欧州系生保の日本法人を買収する場合はEmbVがスタンダードである。当社が携わったあるいは価値評価 の詳細を知る案件でも、EmbV(MCEV)ベース価値評価が行われた。米国はそうでもないが、欧州で生保の評価といえばEmbVがスタンダード である。
 EmbVとDCFの違いは大きく分けると2つある。
 一つ目は、EmbVでは将来獲得する契約は考慮しない。保守的に、既に存在している生命保険契約から発生するキャッシュフローのみ を対象とする。生命保険契約は何十年にもわたって存続し、その間の予実差でキャッシュフローは変化し、契約時に想定したキャッシュ フローとは変化する。将来獲得する契約を考慮しなくても成長率0%ということにはならない(が低成長を想定していることは間違いない)。 なお、将来獲得するであろう契約を加味した「アプレイザルバリュー」がM&Aで使われることも少なくない(EmbVの開示資料でも将来獲得 するであろう契約の価値が表示されている)。
 事業会社の契約は何十年にもならない。ショートスパンである。過去のショートスパンの結果を将来に安易に延長させた結果(成長させた 結果)を基に予測フリーキャッシュフローFCFを計算する。予測FCFの現在価値で企業価値を測定するのがDCF法であった。
 EmbVは将来も過去と同じように保険契約が発生すると考える前に、既存契約を精査して、既存契約から生じる将来キャッシュフローに 注目する手法と言える。
 二つ目は、EmbV(正確には、最も精緻と言われる市場整合的エンベディッドバリュー(MCEV))ではキャッシュフローにリスクを負わせて、 割引率にはリスクを負わせない(注7)。DCF法は真逆でキャッシュフローはリスクを負わせず、割引率にはリスクを負わせる。
 なお点EmbVを用いた評価手法は、フリーキャッシュフローを用いるDCF法よりも点EVAを用いた手法(マッキンゼー風に言うと点エコノミック ・プロフィット・アプローチ)に近い。
 また資料2には、『①EmbVはEPSや資産簿価に比べて、より優れた企業価値評価の測定基準である(株価の動きに対してEPSや資産簿価を 超える追加情報を提供している)。②EmbVはIFRS上の有形純資産価値(TNAV)よりも、金利や株式市場の変動に応じて株価がどのように変動 するかを正確に表している。③MCEVの感応度は、TNAVの感応度よりも、株価の動きを説明する。正確には感応度から構成されるMCEVロール フォワードは、TNAVロールフォワードよりも株価との相関が高い。』と記述されている。
 まとめると、そもそも金融機関は事業会社とはビジネス構造が異なるが、生命保険会社は(他の金融機関と比べても)さらに特殊性が あるため、DCF法とは異なるEmbVという評価指標が考案された。すなわち、「EmbVベースで生命保険会社の価値を評価する」というアプロ ーチは真っ当と言える。

(2)EmbVベースの価格と公正な価格がずれても真っ当と言えるのか。
 欧米の生保7社(注8)を対象に期間2009年~2013年に渡り、株式時価総額(MC)とMCEVの比率を計算した結果が、資料2に記されている。 それによると平均MC/MCEVは93%となり、シンガポールの投資会社の主張は正しく聞こえる。
 ところが欧米と日本は大きく異なる。上場している(市場株価が採取できる)生命保険会社4社(第一生命、T&Dホールディングス、 ライフネット生命及びかんぽ生命)のEmbVとMC(期末時点の株価終値×流通株式数)を比較した。
 なおT&Dホールディングス以外の3社が開示しているのは市場整合的ヨーロピアンEmbVである。T&DホールディングスはMCEV原則に則ったMCEVである。違い等に関する詳細については下記、◆関連記事を参照して欲しい。
 第一生命保険のMC/EmbVは、期間:2015年3月末~2020年3月末の平均値で34.2%。T&Dホールディングスは同期間平均値が34.8%。 ライフネット生命は、同期間平均値が54.5%。かんぽ生命は、期間:2016年3月末~2020年3月末の平均値で40.5%。
 4社中央値は37.6%となる(平均値だと41.0%)。
 期間が異なるとか、ライフネット生命は規模が違うとか細かい突っ込みは無視できるほど、欧州と日本では事情が異なる。
 いずれにしても、日本に限って言えばEmbVベースで生命保険会社の企業価値を評価することは妥当だとは言えない、と結論づけら れるだろう。
 ちなみに15年3月末時点の3社平均MC/EmbVは48.2%で、中央値は48.4%である。三井生命の同時点でのMC/EmbVは、3,345億円/7,500億円 で44.6%である。日本に合わせたEmbVベースの評価でもTOB価格は公正に思われる。

Ⅳ まとめ
 決定された価格は結果としては公正な価格と考えられる。日本でも生命保険会社の真の株主価値がEmbVに近い値であるならば、日本 では本来価値の半値以下で放置されていることになる。そのような状態を投資ファンドが黙って見ていると考えるのは合理的ではない だろう。つまり現象論的議論でも、公正価値をEmbVに近い値と考えるのは合理的ではない。
 ただ、EmbVを排除した理由を、(1)実証的な結果が乏しい、とせずに実証的な結果を示して、(2)日本ではEmbVをベースに生命保険会社 の企業価値を評価することは妥当ではない、とすれば良かったのではないか、と感じる。
 ちなみに、日本の生保では、MCとEmbVが大きく異なる理由として、以下の意見がある。
 ①日本の生保のEmbVは金利変動に対するセンシティビティが高い。
 ②同センシティビティの高さを抑制する経営能力に対して市場が懐疑的である。
   また、米アクチャリーファームのミリマンが作成した、資料1の引用文献(注9)は、日本の a.生命保険市場が価格競争の脅威にさらされていること、b.市場が飽和していること、c.マクロ経済の影響、d.EmbVが業績尺度として市場に認められていないこと等を、 日本が欧米と異なる理由として推察している。
 資料3によれば、日本の生保は
『財務会計利益やそれに近い修正利益から配当や自己株取得が決定されるため、EmbV算出ベースで配当可能な金額 等から計算される配当利回りよりも低い配当利回りになる。このためEmbVに比べて株価が割安になっている。』と考察している。
 なお資料4によれば、ソルベンシーII導入後の欧州では
『株式市場でも株価EmbV倍率(時価総額÷EmbV)を使わず、時価総額÷ソルベンシーII資本(除くハイブリッド資本) を使用するようになった。』ようである。また、『欧州大手保険グループは、これまでEEVとMCEVのいずれかに基づくEmbVを地域別や各国別に公表してきていたが、ソルベンシーII導入後の2017年以降は公表しない会社やグループ全体又は地域別の数値のみの公表に留める会社もある等EmbVの開示の見直しを行ってきている。』ようである。
(出典:https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=64396&pno=3?site=nli)
 

◆関連記事 日本の生命保険会社のエンベディッドバリュー

資料1 西山一弘・中村亮介、EVの有用性に関する総合的研究 https://www.kampozaidan.or.jp/pdf/jisseki/report/221_S1.pdf
資料2 T.C.ウィルソン(玉村・加藤監訳)、価値と資本のマネジメント-金融機関のCFO、CROのための手引き、きんざい、2019
資料3 辻野菜摘(JPモルガン証券株式会社株式調査部マネージングディレクター・シニアアナリスト)、生命保険業界の動向 郵政民営化委員会資料(2017年9月29日)
資料4 辻野菜摘(三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社インベストメンチリサーチ部・シニアアナリスト)、経済価値ベースソルベンシー規制の第三の柱に期待されること SFCRとEVレポートに学ぶ(2020年3月6日)

注1 エンベディッドバリューはEVと縮約できるし、EVと表記されることも普通ではある。しかし企業価値評価の文脈でEVと言えば エンタープライズバリュー(事業価値)であり、EmbVとした。
注2 事実関係については、以下を参照した。柳明昌、[商法598]三井生命保険株式会社株式売買価格決定申立事件、法學研究:法律・政治・社会 Vol.92, No.7(2019.7),p.103-115,慶應義塾大学法学研究会、2019
注3 少数株主の多数決をとること。
注4 法務アドバイザーは、森・濱田松本法律事務所。
注5 財務アドバイザーは、野村證券と大和証券。
注6 萩原邦男、生保の利益指標を巡る最近の動向、保険・年金フォーカス、ニッセイ基礎研究所、p.1-4
注7 EmbV計算は企業によって細かな違いがある。参照金利の選択、終局金利の値、超長期金利の補外を開始する年度。 加えて、金利期間構造モデルのパラメータを推計するためのインプライドボラティリティの種類(マイナス金利の影響で、通貨によって選択が異なる場合あり)
注8 独アリアンツ、英アヴィバ、仏アクサ、仏CNP(元国営の生保)、伊ゼネラリ、米プルデンシャル、端チューリッヒ生命の7社。
注9  Milliman ( 2016a ), "2015 Embedded Value Results -Europe Generating Value", http://www.milliman.com/uploadedFiles/insight/2016/2288LDP_Europe_20160913.pdf)
Milliman(2016b),"Mid-Year Embedded Value Results - Europe and Japan", http://www.milliman.com/uploadedFiles/insight/2016/2016-mid-yearEV-EU.pdf

  
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